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日本・トルコ友好秘話

エルトゥール号遭難事件


 

トルコにできて共催国韓国にできない亊SEN : TUR 22/6 Osaka, Japan 日本人はトルコを愛し、トルコは日本でプレーできることを愛している。大会序盤にファンの心をつかんだのはセネガルだったが、今日のプレーではトルコに及ばなかった。大阪、2002年6月22日
SEN : TUR 22/6 Osaka, Japan  


日本人はトルコを愛し、トルコは日本でプレーできることを愛している。大会序盤にファンの心をつかんだのはセネガルだったが、今日のプレーではトルコに及ばなかった。大阪、2002年6月22日



明治23年、付近で遭難したトルコ軍艦エルトグロール号の遭難碑が建ち殉職した581名の乗組員の霊を祀っている。

 1890年(明治23年)9月16日、トルコ皇帝ハミル2世が日本に派遣した特使一行を乗せたエルトゥール号が、帰路、暴風雨に遭い、和歌山県串本町沖合で岩礁に衝突し遭難するという事故が起きた。
 この事故で、特使を含む518名は死亡したが、死を免れた69名は、地元民の手厚い救護により、一命を取り留めた。この時村人たちは、台風により漁ができなく、自分たちの食べるものさえ無くなってしまうという状況にあったにもかかわらず、非常時のために飼っていた、最後に残ったにわとりまでも、トルコ人に食べさせ介護したのだった。また、遭難者の遺体を引き上げ、丁重に葬った。
 この話は、和歌山県知事から明治天皇に伝えられた。その後遭難者たちは明治天皇の命により軍艦2隻でトルコに送り届けられた。このことは、日本中に大きな衝撃を与えた。
 この話に同情した「山田寅次郎」なる人物が、一民間人として新聞社などの協力を得ながら全国を歩いて義捐金を集め、それを携えてトルコに渡った。 1892年4月4日、イスタンブールに上陸した山田は、外務大臣サイド・パシャに義捐金を手渡し、皇帝アビドゥル・ハミト2世に拝謁した。山田寅次郎はトルコ側の要請で、そのままトルコに留まり、日本語を教えるとともに、日本とトルコの友好親善に尽くした。この時の教え子の中に、後にトルコ共和国初代大統領となる、ケマル・パシャ(アタチュルク)がいた。

 時代は下って、イラン・イラク戦争が始まった、1985年3月17日、イラクのサダム・フセインが「今から40時間後に、イラクの上空を飛ぶ飛行機を打ち落とす」ということを世界に向かって発信した。イランに住んでいた日本人は、慌ててテヘラン空港に向かったが、どの飛行機も満席で乗ることができなかった。世界各国は自国民の救出をするために救援機を出したが、日本政府はすばやい決定ができなかった。空港にいた日本人は、パニックに陥った。
 そこに1機のトルコ航空の飛行機が到着した。トルコ航空の飛行機は日本人216名全員を乗せて、成田に向かって飛び立った。タイムリミットの、1時間15分前であった。なぜ、トルコ航空機が来てくれたのか、日本政府もマスコミも知らなかった。この時、元駐日トルコ大使のネジアティ・ウトカン氏は次のように語られた。「エルトゥール号の事故に際して、日本人がなしてくださった献身的な救助活動を、今もトルコの人たちは忘れていません。私も小学生の頃、歴史教科書で学びました。トルコでは子どもたちでさえ、エルトゥール号の事を知っています。今の日本人が知らないだけです。それで、テヘランで困っている日本人を助けようと、トルコ航空機が飛んだのです」

トルコ軍艦遭難記念碑
トルコ軍艦遭難記念碑 和歌山県串本町南紀大島

明治23年9月14日(日曜日)午後一時横浜を出港し、一路母国イスタンブールに急ぐトルコ軍艦があった。サルタン・ムハメッド5世の勅命を受けて明治天皇に対し、トルコ最高の名誉勲章奉呈のため同年6月7日横浜港に到着し、3カ月間日本での歓待を受け、日土親交の大役を果たした後、栄えある帰途につく特派大使海軍少将オスマン・パジャ 一行のエルトグロル号であった。

9月16日(火曜日)熊野の海は、朝から風雨が激しく荒れ模様であった。夜になりさらに風雨は激しくなり、怒涛にもまれてエルトグロル号は進退の自由を失い、大波に翻弄されながら樫野崎灯台下の船甲羅の岩礁へと闇の中を押し流されていった。この船甲羅こそ、昔から航海者にとって海魔として恐れられていた岩礁であった。乗組員の必死の努力も空しく、同夜9時頃艦は真っ二つに裂け、10時半頃に沈没した。
オスマン・パジャ以下650名が海に投げ出された。
そのうち士官ハイダール以下69名は、波濤の中、艦の破片にすがって約3時間ほど漂流し、樫野崎灯台下の俗称鷹浦にはい上がった。
そして灯台に助けを求めたのである。

遊歩道の入口にあるのがトルコ記念館嵐の夜、裸で赤ら顔の、波にもまれ傷つき血走った目の闖入者に、看守はしばし呆然としたが、前夜来の暴風雨から付近で難破した外人であることを察し、遭難者に手当を施し始めた。言葉が通じない上に混乱状態の中で、灯台技師瀧沢正浄は、万国信号ブックを見せてやっとトルコ軍艦であることがわかった。

これより先、樫野区民高野友吉が海上方面からの爆発音を聞き、これを灯台看守に知らせるために駆けつける途中、異形の外人がよろけながら歩いているのに出会い、その人々を助けるとともに、区民に通報し協力しあって介抱を行った。

こうして17日の朝までに救いを求めてきた遭難者は69名であった。嵐の夜半、通信手段も救助のための機材も満足にない離島であり、方策もたたなかったが、あり合わせの着物を着せ、傷の治療をしながら夜明けを待ったのである。明け方、大島村長沖周、古座分署長小林従二に急を告げた。
そのうち須江、大島両区民も急を聞き応援に駆けつけた。
折良く居合わせた熱田共立汽船防長丸渋谷梅吉船長のたどたどしい通訳で、沈没した船が、エルトグロル号2344頓、600馬力、大砲を20門積む木造軍艦であるということが、断片的であるが初めてわかった。
乗組員は650名であった。

沖大島村長が直ちに県庁に打電するとともに、樫野、須江両区長と協力し、生存者を急造の担架で大島区の蓮生寺に送った。蓮生寺では、村医小林建斉、伊達一郎、松下秀等が治療に当たった。
避難の将卒69名中健全なもの6名、軽傷63名であった。大島村民は各戸に蓄えている甘藷と、飼っている鶏を提供した。
幸いなことに村民のうち堅田文右衛門が、洋食調理の心得があり、コック役を務めた。
乏しい大島の食料は遭難者のために一夜にして底をついてしまった。それにもかかわらず村民はこれら遭難者のため、蓄えている食料すべてを喜んで提供したのである。
食料の次に困ったのは衣類で、村民はありたけの浴衣を出し合い急場をしのいだ。
6尺(185センチ)豊かな大男がちんちくりんの浴衣を着ている様は、悲壮感いっぱい漂う中でただ一つの笑いであった。
その後一週間にわたり人夫百数十名により、他の遭難者の捜索につとめ、アリーベ艦長ほか219名の遺体を収容した。オスマン・パジャ以下残り362名はついに遺体すら発見されず、遠く故国を離れた異国の大島樫野の海底深く眠り続けている。
発見された遺体は、ハイダール士官立ち会いのもとに、遭難した船甲羅が真下に見える樫野崎の丘に埋葬した。
翌明治24年(1891年)、県知事ほか有志により義援金が集められ、墓碑と遭難追悼碑が建てられた。同年3月7日に追悼祭を行い、遭難した人々の霊を弔った。
トルコ軍艦遭難記念碑
 (記録等串本町資料および観光パンフレット参考)

 

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